『津軽』の魅力についてご紹介
築城400年の弘前城の桜


 弘前城は、藩祖為信公により計画され、二代藩主信枚公により慶長16年(1611年)に完成した城です。以来、弘前市のシンボルとして、また津軽地方の観光地として、岩木山・白神山地と共に、全国から観光客が訪れる場所です。

 
弘前公園内にある最古の古木400年桜    築城400年の弘前城

その弘前城は、平成23年(2011年)に築城400年の節目の年を迎えることになりました。江戸時代には弘前藩津軽氏は47,000石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となりました。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城です。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積385,200平方メートルに及んでいます。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、1棟の天守、3棟の櫓、5棟の櫓門が現存しています。天守は日本に12箇所残されている現在天守(江戸時代)以前に建造された天守を有する城郭)の1つであり、国の重要文化財に指定されています。

 

 

司馬遼太郎さんは『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介しています。この津軽氏は、西津軽郡の鰺ヶ沢町の種里地区に、城跡があります。種里城は延徳3年(1491年)、南部光信が久慈から安東氏に備える為、この地に派遣され築城したのが始まりと伝えられています。光信は大浦氏を名乗り周辺豪族を懐柔させ勢力を広め津軽地方へ進出、大浦城を築くと養子である大浦盛信を置き、大永6年(1526年)に種里城で死去します。その後、大浦氏は津軽氏として津軽地方を統一、小田原の役では豊臣秀吉に臣従したことで大名として認められこれを期に南部氏から独立し弘前藩が成立していきます。種里城は、その後も津軽氏発祥の地として重要視されていましたが、一国一城令後に廃城となり、城内に埋葬された光信の御廟所は聖地として保護されました。

現在、種里城は郭の形状などが残る他、光信御廟所、光信が死去後殉死した奈良主水貞親の墓があり、本丸附近に光信公の館(鰺ヶ沢町郷土文化保存伝習館)が建設されています。種里城は国指定史跡に指定されています。場所は、くろくろまの滝方面に向かっていくと、右側に大きな石碑がたっており、一目でわかります。

 

 

撮影日:2011年5月4日 曇り